ネコは見た目が〇割
「人は見た目が〇割」なんとかというキャッチフレーズが数年前の日本に出回りましたが、それだけ人の人間の特徴で唯一むき出しになっている見た目というものは何かと重要視されるものです。
「人は見た目がすべてじゃないよ」とも言いますが、それも結局は見た目が与えるインパクトの大きいことを前提にした話であります。
そんな人間界で取沙汰される見た目の問題が、(トルコの)野良ネコ界ではもっとシビアに現れるます。
野良ネコはトルコの町中至るところに生息しており、だからトルコに「ネコカフェ」ってないのかと思わせられるほどです。餌をねだりにネコがカフェに入ってくればネコカフェになります。(ネコカフェには行ったことはありませんが・・・)
そんな野良ネコたちですが、彼らがいるのは食べ物が得られる場所です。レストランやカフェ、学校の食堂、ゴミ捨て場、独身の中高年女性の家の近く(トルコでは独身の女性が年を取るとネコの面倒を見始める、と言われます)etc...です。
そこにいるネコを見続けているうちに、だんだんとネコの顔つきの違いも分かってきました。(前はネコに関心がなかったので特に区別はつきませんでした・・・)
そして気づいたのです。ネコの美醜と活動エリアに関係があることを。
ネコの間でも顔がかわいいのかそうでないのがおりますが、かわいいネコは大体レストランやカフェ、学校の食堂にいて、そうでないネコはゴミ捨て場にいる印象があります。
かわいいネコは自覚があるのか、「にゃ~」と甘えた声ですり寄ってきて上目遣いをしながら餌をねだってきます。
一方、そうでないネコはゴミ捨て場を漁って食べ物を得ようとしています。中にはレストランやカフェに乗り込んで実力行使で食べ物を奪おうとしたり、他にライバルネコがいない状況で悠々と餌をねだる者もいます。
また、かわいいネコは元の顔かたちの良さに加えて多少ふっくらとし、毛並みもきれいで表情も柔らかめなのに対し、そうでないネコでゴミ捨て場の近くにいる者はやせ細って薄汚れており、眉間にもしわが寄って狡猾そうな表情で正直あまり良い相をしていません。
ネコはお腹が満たされないと毛づくろいをしないらしいなので、ゴミ捨て場の近くにいるネコは食べ物を探すのに懸命で毛づくろいをする余裕がないのかもしれません。
かわいいネコは見た目を生かして人間から良いごはんをもらい、お腹が満たされて身づくろいをして綺麗になり、そしてまたごはんをもらうという正のスパイラルをたどるのに対し、そうでないネコは負のスパイラルをたどる一方だと見受けられます。
そこから抜け出すには、腕の力に頼るか、頭を使ってライバルのいない場所に自分の地位を確立するかが必要になってきます。
人間の場合はいろんなオブラートに包まれていたり、美醜とは別の要素が同じ働きをしたりとより複雑ですが、そんな動物的なリアルさをむき出しにするのがネコの世界でした。
そう思ってゴミ捨て場近くのネコにケバブをあげるか、と思ってもやっぱり彼らの険しい顔をみると少しためらってしまうのでした。でもやっぱりあげてみようかな。