「友達」はどこまで?
A「はじめまして。僕の名前は鈴木太郎です。」
B「はじめまして。私の名前は田中花子です。どうぞよろしく。」
A「そちらはどなたですか?」
B「こちらはわたしの友達のジョンです。」
ジョン「どうぞよろしく。」
このような日常では絶対になされないであろう形而上的な会話風景を描いたものが、中学英語というものでした。
その中で読者(中学生)は、日本人の二人が英語で、しかも名前からして明らかに英語話者であるジョンの紹介をするという、非常にシュールレアリスムな世界を体感することになります。
そうして、多感な少年少女たちは、当たり前が当たり前なのか?という問いを自らの胸のうちに抱えつつ、「思春期」という乱世を全力で駆け抜けていくのでした。
さて、英語や他の言語を問わず、外国語の語彙を増やす最初期に必ずと言ってよいほど出てくるのが、「友達」という単語です。
正直、「友達」という言葉は、自分の友達について話す第三者がいて初めて使われるものであって、少なくとも二人以上の知り合いがいることが前提条件となっている点はあまり気付かれていないように思います。その意味で、この語は異国に来て最初に問題になるであろう人間関係の構築具合を表わす一つの試金石のようなものであると言えます。
トルコ語で友達を意味する言葉は、「arkadaş アルカダシュ」です。
複数の友達と言う時は、複数を表わす「lar ラル」をつけて、「arkadaşlar アルカダシュラル」となります。
ところが、この「アルカダシュ」という言葉、日本語の「友達」という意味だけでなく、もっといろいろな対象を含んでいます。
例えば、
・ただのクラスメート
・その日知り合いになったばかりの人
・ただの仕事仲間
・先生にとっての生徒・・・生徒に向かっての呼びかけが「アルカダシュラル!」
・道を聞いてきた人
ですから、「アルカダシュ」=「友達」と理解していた場合、授業で先生に「アルカダシュラル」と話しかけらたり、道を聞いただけの人に「アルカダシュ」と言われると、いつの間に友達になったのか?と困惑してしまいます。
では、「アルカダシュ」は誰を指すのでしょう?
辞書を引くと、「友達、仲間、連れ」という意味だけが出てきます。
さらにこの単語を分解すると、「arka アルカ(うしろ、転じて心強い友や協力者)」+「daş ダシュ(ペルシャ語で「~を持つ」という意味の動詞دادنから派生した「持つ者」を意味する接尾辞داش」となります。
このことから、「アルカダシュ」の元来の意味は「(人にとって大切な)うしろを守る者」であり、自分を助けてくれる友人や支援者、協力者を指す言葉であったことが分かります。
「自分を助けてくれる」存在、という部分がこの単語の重要な要素でしょう。
それが時とともに意味が薄れ、今では「知人と言う存在を暖かく指す言葉」として、実に広範囲に使われるようになったのでした。
それどころか、先生が生徒に対して話しかける時や、道を聞かれた人が道を聞く人に言う場合は、むしろ本来の意味と逆転した形で使われています。
ですから、トルコで初対面の人やあまり親しくない人に「アルカダシュ」と言われても、ただの知人でしかない自分に向けられた気遣いであると見てどうぞ軽く流してください。